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ものづくりストーリー 木製和樽から鋼板製一体型タンクまで

当社の歴史を「ものづくり」にこだわった創業者、渡辺定次の半生と重ね合わせてご紹介させていただきます。

第1話 先ず学ぶ

写真:灘修行時代 定治:後列右

 

当社の起源は明治時代にまでさかのぼります。
当時は樽製造メーカーといった物ではなく、特定のお酒屋さんから依頼があれば、農業の傍ら酒樽を製作し、納めていたといった様な感じでした。
明治32年、ごひいきのお酒屋さんの事業拡大に伴い、新潟県長岡市に移転し、本格的に酒樽の製造を始めます。
当社の創業者「渡辺定治」は当時まだ6歳の少年でした。
時はたち明治42年、定治少年16歳は高等小学校卒業後、家業の樽製造に従事し始めました。当時、製樽と云えば関西灘地区が全国的に有名で、四斗樽などの製樽技術に秀でていました。
一方、家業としての製樽は、大桶と一斗樽の製造が主流で、四斗樽に関しては灘に技術が追いついていない状態でした。そこで定治少年はこの灘地区へ修行に出て、製樽の品質面に関わる、製樽材料となる原木の質の見極め方、
樽の製造技術、それに伴う工具の選定等を身につけていったのです。
樽の材料となる材木は、樽丸と呼ばれるもので購入します。樽丸とは、樽の側、蓋、底の材料を丸く束ねた物です。
樽丸の品質は、その「木口」にて素性を見極めます。木口を地面の硬い所へ20~30°傾けて落下させ、打撃部の木口の状態及び色合いにて良否を判定するのです。
また、仕事の流れについても、段取りから製作まで、洗練されたものであり、使用する工具についても、地元では見かけない、最新の物が使われていました。
大正2年、灘で学んだノウハウを地元へ持ち帰り、本場の製樽技術を伝授して行きます。
創業者:渡辺定治にとってものづくりとは、先ず学ぶ、と云うことから始まったのです。

第2話 独立の志

家出同然で灘へ出て、本場の製樽技術を学んだ定治は、生家へ戻りノウハウを伝授します。
一年ほどで技術が浸透したのを見届けるとまた何やら落ち着かなくなります。

 

写真:第2回灘修行時代 定治:右

 

帰郷して1年。職人や弟子たちの先頭に立って働きながら、定治は自分の今後の進み方を考えて、悩ましい日々を送っていました。職人というものの限界、肌で感じた関西人の商法…、ものづくりとは、技術だけでは成り立たない。今一度関西へ行って、樽丸から問屋関係の勉強をして来たい。そんな思いが徐々に膨らんで行きます。が、家業を差配する長兄はそれを許しません。
こうして定治は人生で2度目の家出を決意、再び灘で樽職人として働くことになったのでした。
ただし、今度は技術のみでなく、商売を学ぶ事になるのです。
大志を胸に樽職人として働く定治に、一大転機がやってきました。長岡の実家ごひいきのお酒屋さんが「焼酎原料として掃き寄せ米が灘地区には沢山あるはずだから買い入れて送ってくれ」というのです。この取引をうまくまとめた定治は、雑穀問屋との取引を始めます。やがて樽職人をやめ、商人として新潟の各業者を相手に取引を拡大していくことになります。大正5年、定治23歳のことでした。
大正6年、商売繁盛で金の融通もきくようになっていた定治でしたが、肥料用の米糠の取引で大失敗、また、追い打ちを掛けるように米相場を読み間違え、大損害を出しました。
定治は、再び今後の進み方について考えます。
「烏が鵜の真似をしても無駄だ」少年時代「桶治」と呼ばれ、樽に囲まれて育った定治。自分のこれまでの人生を振り返り、一番身近な樽丸の取引に専念し、雑穀肥料類の取扱いをきっぱりやめようと決心します。
2度の家出は、実家にいては自分の思うままに生きられない、そんな思いに衝き動かされた、定治の強い独立の志のなせる業だったのです。
大正7年、定治は長岡へ帰郷。今度は独立した商人として。
そして、広く新潟県下の製樽業者に樽丸の販売を開始、独占的に販路を拡大していったのです。

第3話 成功と失敗と

商人として一応の成功を見た定治。
しかしその根底には、樽職人としての“ものづくり”へのこだわりが綿々として生きていたのです。

 

写真:製樽工場 大正9年

 

商人として独立し帰郷を果たした定治は、樽丸の取扱いで県下に名を得るようになりますが、当時の渡辺商店は一間間口の貸店舗で、妻と二人だけの小さな所帯でした。
そんな時、実家の家業を差配していた長兄が友人に請われて、北海道へ手伝いに行くことになり、定治が家業の製樽も預かる形となったのです。それを機に、畑地700坪を購入、大正9年ここに住居と製樽工場を建てました(現在の(株)日本容器工業長岡事業所)。
さて、当時新潟県内の酒造業界では一斗樽が主に使用されていました。定治は本格的に製樽業を始めるにあたり、一斗樽について色々と研究を重ね、樽側の用材やタガを改良した、新型の一斗樽を考案。この新型一斗樽は従来のものより原価を下げたにも関わらず、品質は向上したため、売値を従来品の1割高としました。これを盛んに宣伝、新潟県下の全酒造業者に使用を勧めたところ、売れ行きは素晴らしく、広く酒造業界の人気を得ることとなりました。更に県内の製樽業者からは、「新樽の材料を分けてくれ」との声が相次ぎ、樽の製造販売に樽丸や原材料の販売とを兼ねる様になり、まさに"事業の青年期"を迎えたのです。
定治の熱い研究心が功を奏し事業は大繁盛。しかし、大正15年、そんな定治に一大事件が起こります。某県の官木払い下げ入札で、指名入札権がなかった定治は、取引先である材木商と協力して入札、無事落札。代金2万3千円(現在で約3千万)を現金納付したところ、後日その落札の権利が差し押さえになったのです。原因は当の材木商に滞債務があったためでした。定治にはどうすることもできず、唯々茫然とするばかりでした。何しろ商売上大切な資金が水の泡となったのですから…。
ことが落ち着いて、定治は今後の方針について熟考します。その結果、当面の運転資金を調達することが先決だ。
そのためにはこの機会に渡辺商店を株式会社にしよう。そして将来は会社を大きくし資本金も増やしてゆこう、と意を決したのでした。
こうして定治は失敗をバネとし、株式会社渡辺商店を設立したのです。
昭和2年、定治34歳のことでした。

第4話 出会いと機会

昭和2年、株式会社渡辺商店を立ち上げた定治は、ひょんなことから灘琺瑯タンク製作所設立の音頭をとることに。きっかけは偶然の出会いでした・・。

 

写真:醸造用品展 昭和3年頃

 

官林指名入札の失敗を乗り越え、株式会社を発足させた定治。気持ち新たに商売に力を入れ順調に成績を上げていきます。こうしたある時、北海道で容器関係の会社の専務をしている従兄との偶然の再会が定治の商売に新しい局面を作り出します。
商用で旅行中の定治は、その車中で、前述の従兄とばったり出会います。いろいろ話すうちに、「近頃、灘でKという人が醸造用容器として鋼板製の琺瑯タンクを製作する目的で資金を注ぎ込んで努力しておられるが、資金的に苦労があり進行がはかどらないようだ。」との情報を得ます。従兄のこの話に、定治は閃き強く印象づけられるものを感じました。
すぐさまK氏のもとへ向かい実状を確かめた上で、2日にわたってK氏と懇談します。そして色々話を聞き、調査した結果、琺瑯タンクの製作販売の推進に定治も力を貸すこととなりました。
定治は取引先である新潟県内の有力な酒蔵の社長方を説得、最終的に朝日酒造、新潟銘醸、君の井酒造と共に出資し、K氏も含めて株式会社灘琺瑯タンク製作所を設立します。定治は監査役に就任しました。
こうして各地の酒造業者に対して琺瑯タンクの販売活動に参加する訳ですが、ちょうど酒造業界の新製品タンクへの関心が高まりつつある時期でもあったために、伝統を重んじる灘地区の業者以外の各県業者にはどんどん売れ出しました。
定治の渡辺商店は東北6県及び新潟県内についてこの琺瑯タンクの一手販売の権利を得、会社の基礎がここで固まったという程の業績を上げることになります。
琺瑯タンクは桶と違って酒の欠減※1がなく、他にも増し桶※2がいらなくなるなど、従来品に比べて大変優れた製品だったのです。
こうして灘琺瑯タンク製作所への投資は大成功を収めました。
定治は一つの偶然の出会いから得た一つの機会を逃さず成功へつなげたのでした。    

 

※1 従来の木樽では十分乾かしてから酒を入れるので1年で約6%の欠減があった。
※2 欠減した分の酒を足すための桶。 

 

第5話 次への布石

定治が青春を掛けた木樽。
渡辺商店は木樽生産の最大手となります。
そんな時でも、定治は「次」を見ていました。

 

写真:醸造用品展示会に出品された製品群

 

灘琺瑯タンク製作所への投資は大成功を収め、新たに始めた壜販売も含め、タンク、樽、壜の各容器とも好調な売れ行きを示しました。そして渡辺商店の業績は上がり、一つの繁栄期を迎えたのでした。
樽の生産量は年々増大し、製樽技術のさらなる改良に定治は取り組みます。
当時、ほとんどの業者が昔ながらのやり方で製造している中、定治はいち早く製樽の機械化を目指したのです。
ある会社が持っていた製樽機械の特許を買ってきて改良を加えて試作をしてみたり、また別の会社で製樽技術を持っているという情報を得て製作を依頼したりしましたが、なかなか理想どおりにはいきません。あるときは何万トンもの軍艦を円滑に動かす操舵装置にヒントを得て機械を作りました。しかし、実際に稼働してみると仕上がりがうまくいかず、当時の額面で三千円も投じた機械をスクラップにしたこともありました。
それでも定治は機械化を諦めず、その後も絶えず工夫して長い年月をかけて、昭和10年にとうとう思い通りの樽を作れる機械を作り上げたのです。名付けて「四斗樽輪締機械」。電動ギヤ装置で女子工員でも楽に操作できるものでした。
これを工場内に2セット設備、日々フル稼働し、四斗樽日産200樽以上と当時全国でも随一の生産能力を誇りました。
昭和12年盧溝橋事件に端を発した戦争の深みにはまっていく中で国内の物資は不足がちとなり物価は急騰して当社の製品材料である樽丸も木材統制と並行して出荷統制を受けることになりました。
しかし、樽は国民生活必需品である酒、味噌、醤油、漬物などの食糧に関係した容器ということで戦時中も生産には何等制限を受けず事業は軌道に乗り好調を続けました。
終戦後の8~9年、木樽の需要はまだありました。しかし、大口顧客が木製の樽の使用から、国鉄の貨物輸送車やトラックの専用車に切り替えることになり、樽の需要は減って行きます。
「今時木製の樽でもあるまい」と、定治は樽に代わる新製品の開発に意欲を燃やすのでした。

最終話 受け継がれる精神

戦後復興の真最中、既に還暦を超えた定治でしたが、ものづくりへの意欲は衰えません。
「木樽に代わる新しい何か」を追い求める定治にある出会いが訪れます。

 

写真:昭和32年 大型タンク第1号:新潟銘醸殿向け 14.5kl調合タンク

 

昭和29年、当社の工場長がひょんなことから、慶應大学教授の武井武理学博士と知り合う機会を得ます(当時、博士は埼玉県与野町:現さいたま市の教育長、工場長は小学校のPTA会長だった!)。
博士はフェライトの発明により国際的に高い評価を得られた電気化学界の権威ですが、金属表面処理:溶射ホーロー、溶射プラスチックの研究も専門とされていました。工場長から強く薦められた定治は、博士と会見。溶射プラスチック技術について聞くに及び、「プラスチックライニングタンク」が木樽及び琺瑯タンクに代わる「新しい何か」であることを確信します。
早速、博士の在籍する(株)科学研究所:現(独)理化学研究所を通じ、プラスチックライニング技術の開発に取り組みます。しかし、ある物質に対して優れた性能を発揮しても、安全性に難があったり、耐久性には優れながら施工性に難があったりと様々な要素のバランスの上に成り立つ物で、開発は容易なものではありませんでした。
開発に着手して、試行錯誤の日々を続けること3年、ようやくプラスチックライニングタンクの製作に成功します。
製品化はしたものの、プラスチックライニングの存在を世間に知って貰い、また、認めて貰うためには、かなりの時間が掛かりました。大げさに云えば、馬で移動するのが普通の時代にバイクが登場したようなものですから。
現在のように醸造業界全般に採用されるようになったのは、大手醤油メーカーとの大口の取引がきっかけでした。実は、この取引に関しても、ちょっとした人の繋がりがありました。
当時、鋼板製タンクを製作するにあたり、早稲田大学の内藤教授に構造設計のご指導をいただいていました。実は、内藤教授は大手醤油メーカーの設備設計にも関わられており、「内藤先生のご指導なら安心」と、信頼を得ることができたのです。
定治は当時を振り返り、「他人との接触の際も、仕事の進め方、やり方についても、平素の在り方が極めて大切である」と述懐しています。
定治の開発したプラスチックライニングタンクは、その後も開発が続けられ現在の「鋼板製一体型エポキシ樹脂ライニングタンク」へと進化、食品業界のみならず、建築設備の受水槽、蓄熱槽等様々な用途のタンクへ発展、世の中へ出て行っています。
昭和62年、定治は92歳でこの世を去りましたが、その精神は技術者たちに受け継がれ、今も生き続けています。
ものづくりストーリーに終わりはないのです。           完

 

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